京に伝わる四つの念仏狂言のひとつ『千本ゑんま堂大念仏狂言』を伝える千本ゑんま堂は、
平安時代に京の中心であった朱雀大路(羅城門から応天門までの大通り)に、歌人 小野
篁卿(802〜852)の霊験によって、えんま法王を本尊として建てられました。その後、
後一条天皇の時代の寛仁元年(1017)に比叡山のふもとにある横川の源信(恵心僧都)の
弟子である定覚上人が、諸人化導引接仏道の道場として『引接寺』と令名し、閉山された
音刹寺院です。
当時千本ゑんま堂周辺は、京の五大三昧と呼ばれる五つの大きな墓場の一つで、大変
淋しい所でした。それに加え、都を荒らしまわる土賊の集団が住処としていた地であった
ため、危険で恐ろしい所だったのです。そこで定覚上人は、藤原道長から遣わされた守護
役人・為朝を土賊の退治にあたらせました。その為朝が襲来する数千人もの土賊を金剛枚で
なぎ倒し懲らしめると奇跡がおこり、金剛杖にあたったものは善心を取り戻し、病は治り、
災いが消えてしまったのです。
このような、えんま法王の御心によって現れた数々の不思議を一般に伝えるためや、
五大三昧に眠る多くの霊への供養・念仏として千本ゑんま堂大念仏狂言が始められました。
それ以来、狂言講中の一人が為朝に扮し、参詣の方々に金剛枚をあてて病気を治し災難を
免れる『千人切り』を、千本ゑんま堂狂言の根源的な演目として毎年一番最後に上演する
形で今日まで伝えられています。
『えんまん堂のきょうげんは、だ−れがさき、は−じめた。でっかい坊主がは−じめた』
と、わらべ唄に歌われる千本ゑんま堂大念仏狂言も、その後断絶してしまいます。しかし
鎌倉時代に入ってから如輪上人によって再興され、相続されてきました。
また、境内に咲く普腎象桜がとりもつ縁で、室町幕府三代目将軍足利義満の知遇を得
”桜の盛りに狂言を行うべし”と50石の扶持米を与えられていたともいわれています。
現存資料では1561〜1563年項の京の景観を描いた狩野永徳筆の上杉家蔵『洛中洛外図』
屏風の一部にも、最古の狂言図として描かれるほど歴史のあるものです。
千本ゑんま堂大念仏狂言の大きな特徴は、他の大念仏狂言がパントマイム(無言劇)で
あるのに対し、演目のほとんどがセリフ(有声)劇で演じられていることです。近年まで
に伝承きれてきた演目は50曲をこえ、江戸初期の三大念仏狂言評にも『狂言綺語の法事』
とあるように、滑稽とケレンで大衆を引きつけ、大念仏修行の目的を果たしています。
かつては狂言講中と呼ばれる西陣地域内の特定の家系の男性によってのみ継承され、
昭和初期には20日間程延々と公演が行なわれるほど隆盛を極めましたが、1964年に
後継者不足などで中断。さらに1974午に狂言舞台と狂言衣装が焼失してしまい、当狂言も
これまでと思われました。しかし、幸い狂言面が消失をまぬがれた事などがきっかけと
なり、その不幸をバネとして中断前のメンバーら6名が中心になって1975年に保存会を
結成し、復興にカをそそぎました。その後一般からの参加を募り、現在では4オから65オ
までの約30名が活動の輪に参加しています。
千本ゑんま堂大念仏狂言は、土臭い雅味を伝えながら毎年5月1日〜4日まで公開し、
京の伝統芸能としての灯をたやさぬ様つとめており、京都市の無形民俗文化財に登録
されています。