第32回   グラツィエ イタリア (2001年12月3日)

                                  M.Sunabata

 先日、イタリアを旅してきた。ツアーだったのでスケジュールが決まっている部分も多
かったのだが、時間が許す限り私は好んで独り街を散策した。

 ローマ古代遺跡で有名なコロシアムをツアーメンバーと見学後、添乗員の方に配慮頂き、
そこから独りでローマのホームスタジアムであるスタディオ・オリンピコ探索に出掛けた。
高額紙幣しかなかったので、日本で言うキオスクのような売店にて地下鉄の切符を購入。
ちょっとしたアドベンチャーの始まりだ。

 この時期のローマは1日中、雨が降ることはないらしい。それまでしとしとと雨を降り
注いだ空も、機嫌をなおしてくれたようだ。不要になった傘を折り畳んで、私はベンチコ
ートのポケットにしまい込んだ。私の前に座っていた痩身で上品そうな老婦人が、その様
子を何気に見ていた。が、おばあさんは巻くすようなイタリア語で私に何かを訴えている。

 私はまったくイタリア語が解らない。「ポケットの中の傘がぶつかった?」と彼女の様
子から推測し、英語で謝罪してコートが広がらないようにボタンを閉じた。それでも彼女
はまだ言葉を続けている。私の頭に添乗員の言葉が過る。−地下鉄の中はスリが横行して
いるから気を付けるように−もしかしたら彼女は、私が安易に傘をポケットに突っ込んだ
ことに、「注意しなさい」と促しているのかもしれない。私はポケットの中から傘を取り
出すと、手に持ち直した。婦人は軽く頷いてニコリと微笑んだ。

 フラミーニオ駅で地下鉄を降り、駅前から丁度、発車しようと2番の路面電車に飛び乗
った。電車に乗って気が付いたことは、到着駅のアナウンスがないこと。電車が止まる度
に指折り数えていたのだが、やっぱり私はやらかした。降りるべき停車場を誤ったのだ。

 スタディオ・オリンピコの近くに来ていることは間違いない。私は歩いてスタジアムに
行くことにした。会社も終る時間で、まばらではあるが人が歩いている。帰宅するのか車
のドアを開けようとしている若い女性に「Excuse me」と声を掛けた。スタディオ・オリ
ンピコに行きたい由を英語で聞いたのだが、彼女は懸命に答えてくれた。しかも早口のイ
タリア語で。

 それまで私の過ごしてきたイタリアは、英語の通じる場所と人だった。ホテルにしても
観光名所も、談笑したツアーバスの運転手のフランチェスコさんやお土産屋の店員も…あ
ぁ、会話が英語じゃないなんて。彼女がジェスチャー付きで説明する様から推理して、こ
っちは英語でその意を確認する。相手は英語に困ったような顔をしつつも、私のジェスチ
ャーにそうそうみたいに返事をする。目の前にあった小路を真っ直ぐに行けと言っている…
ような気がする。

 私は彼女の熱意と、自分の閃く感を頼りに道を進む。道なりに歩いたところで、街のサ
ッカークラブ帰りの青年に出くわす。私はさっきと同じ質問をする。しばらく頭を掻きな
がら考えて、彼はゆっくりと言葉を区切りながらイタリア語で返答した。彼の言葉で解っ
たのはウノだけ。彼の動かす手と総合すると、道なりに真っ直ぐ歩いて、1つ目の角だか
信号だかを右に行け。なのかもしれない…

 その後もベビーカーを颯爽と押してウィンドーショッピングする二人の若いお母さん達、
雨上りの街を散歩するおじいさんと、様々な年齢の人に道を訊ねた。そしていずれも熱心
にイタリア語で説明をしてくれる。

 説明通りに歩いていると勝手に思いつつも、閑静な住宅地に至った時には、もう自分は
迷子になっているとしか思えない。しかも夕闇がローマをひっそりと包み込んでいた。買
い物帰りの主婦を掴まえる。私の顔には不安の色が一杯だった。彼女もイタリア語しか出
来ない。でも朗らかな声だった。進むべき道を指さし、しきりに「ポンテ」と言って、手
を山なりに動かし何かを越える動作をする。

 「ポンテって丘か坂道のこと?」と思いながら進むと大通りにに出て、そこには石造り
の大きな橋が見える。それを渡っている時に、念願のスタディオ・オリンピコの鉄骨に三
角テントを張ったような屋根が、白い歯を覗かせて笑いかけていた。スタジアムの全容は、
重厚な存在感を示し、メインロードの大理石の半裸象がいにしえに誘いつつ、スタジアム
の近代的な姿との不可思議な調和を描いていた。

 イタリアでは「10人に1人、英語を話せる人に巡り会えればラッキーよ」とは添乗員
の人の言葉である。比較的に若い人だと英語は話せないこともないが、私がイタリア旅行
中に、街角で声を掛けた30人近くの人のうち、世間話も出来る英語力を身に付けていた
人はたった4人。残りの人はイタリア語でしか話せなかった。

 長々と書いたローマでの出来事でも解るように、誰もがイタリア語で答えていたことか
ら、私の紡ぎだした英語はほとんど通じてはいないのかもしれない。ただ見知らぬ外国人
に呼び止められ、「スタディオ・オリンピコ」という単語、人々はシチュエーションを鑑
みて道を訊ねられていると考えたのであろう。

 英語は理解出来なくても、イタリア人は陽気でとっても親切だ。道を訊ねた人で、「解
らない」と言ったのはたった1人。その人はミラノで地下鉄の乗り換えを訊ねた時に「自
分はミラノに住んでないから解らないんだ」と答えたに過ぎず、駅の路線図を見てまごま
ごしていた私のもとに、別れたはずのその人が戻ってきてわざわざ乗り換えホームを教え
てくれたほどだった。

 イタリア人は言葉の問題なんて取るに足らないとばかりに、質問してきた人に自分の知
り得る情報を何とか伝えようとする。自分が知らないことなら、「英語が解る人いません
か?」「知っている人いないかい?」と別の誰かを掴まえてでも、訊ねたことに返事をし
て応えようととする。そのイタリア人の熱意が、イタリア語の解らない私を不思議と正し
い方向に導いてくれたように思う。

 海外旅行をした後、折に触れ思い出すその国の印象はどんなことにあるだろう。訪ねて
いった美術館、それとも観光名所?海外の名所を案内する旅番組を見て、「あ、ここに行
った」ということはあるけれど、案外、記憶とともに薄れてしまうことも多い。だけど街
を探索していて触れ合った地元の人々とのエピソードだけは、心の片隅にいつまでも色褪
せることなく輝いている。人の温かみが、その国に対する好印象を与える。

 来年の私はイタリアの人を含め、外国からの来訪者に応えてあげられるだろうか。他人
を思い遣る心さえあれば、お互いの言葉が解らなくたって…「ありがとう日本」と言われ
るようでありたい。