ジャッロブルーの扉を開けて

                                 砂畑 恵

 イタリアにおける列車の旅は、時間通りにはことが運ばない。「ピアーノ、ピアーノ」
という、何事もゆっくりというイタリア語が合い言葉のようなお国柄。切符を買う人が長
蛇の列をなそうとも、販売係員の手際はゆったりしている。お蔭で予定の列車には乗るこ
とが叶わず、次のミラノ発ベネチア行きのローカル電車の切符を購入するはめとなった。
ヴェローナまではローカル電車でも1時間45分程。この列車でも予定の時間はギリギリ
間に合う。ところが私の前にいるしかめっ面の男性が時計を見ながらイライラした素振り
をみせ、隣で本を読んでいる若い女の子に何か訊ねている。どうも列車の出発が遅れるら
しい。これでは到底、予定通りには着けない。私は暗澹たる気持ちになった。

 私がヴェローナに行こうと決心した理由はただ一つ、セリエA初のヴェローナダービー
を観戦したいが為だ。第一、この試合を基準に旅行日程を決めたのだから。
 ヴェローナは日本でも知られているセリエAのチームで、さしたる成績はなく降格と昇
格を繰り返す下位クラブ。ただこの2シーズンはどうにかトップリーグに留まっている。
だが私の関心はキエーボにある。どうみても実力が上のビッククラブ対しても、「相手に
殴られる前に、殴ったる」というように腰を引かずに攻める姿勢が小気味よい。キエーボ
は17年前には日本でいう4部所属のアマチュア同然のクラブだったのだが、今シーズン
にセリエAへ初めて昇格を果たし「奇跡のチーム」と呼ばれている。しかもキエーボの街
の人口は三千人ほどで、クラブを支える資金力も満足にない状態ながら、リーグトップを
快走中。「いつかはJリーグへ」と夢見る地元群馬の図南クラブの関係者を取材している
私にとっても、興味深いチームである。

 漆黒の闇に包まれた列車がヴェローナに向けてひた走る。ふと外を見ると水滴が窓を伝
う。アスファルトの道路は水を含んで街灯の光りを鈍く反射させていた。ローカル線では
到着駅のアナウンスはない。廻りに座っている人々に確認をして、雨の降りそぼるヴェロ
ーナ・ポルテ・ヌーバ駅に降り立ち、そこからタクシーを飛ばしてスタジアムに駆けつけ
たが、既に試合はキックオフされていた。チケットは前売りにて総て完売で、ダフ屋に頼
るしかない。だがそれらしき男どもはホクホク顔で露店のスタンドバーに集まり、一仕事
終えた充実感に浸っていた。

 私は取り敢えず、スタジアムの周辺を歩いてみた。スタジアムは周囲を鉄柵に囲まれて、
入場ゲートはみな南京錠が掛けられている。ヴェローナサポーターらしき青年が彼女の肩
を抱きながら、門の中にいるスタッフに大声で話しをていた。どうも金を摘ませてスタジ
アムに入れてもらおうという魂胆らしい。数分やりとりをしていたが、係員は惜しげにゲ
ートを離れていく。商談不成立に青年は「帰りゃいいんだろ」と腹立ちを露にし、わめき
ながら去っていった。

 −宿でテレビ観戦しようか−私も諦め気味で歩き出したが、スタジアムから溢れ出る歓
声や歌声は私を帰らせようとはしない。その熱気に触れているだけでも私を幸せな気持ち
にさせる。スタジアムから立ち去り難く、私は近くにあったお土産売りのテントを覗いて
みることにした。年老いてはいるが活きのいい叔父さんと若い衆二人の、チームマフラー
を売る露店である。叔父さんがイタリア語で何か聞いている。イタリア語の解らない私が
返事に窮していると、若衆は「どっから来たんだ」と片言の英語で叔父さんの通訳に早変
わりした。私が日本人と知ると、全員「ナカータ」とはやし立てる。叔父さんは私に紙コ
ップを差し出し「飲め」っと酒を注いだ。私は全く飲めないけれど、一口付けてみた。ジ
ンのように透明で、口から火が出るように辛い。苦味ばしった私の顔を見て、若衆は笑い
ながら「サケ、サケ」と日本語を連発した。叔父さんは私の姿に上機嫌で「お前はヴェロ
ーナか、キエーボか」と聞いてきた。私は「キエーボ」と答えてから自分の失敗に気が付
いた。叔父さんはヴェローナのマフラーをしている。叔父さんはまいったねと言わんばか
りに首をすくめた。その場を丸く収める為に両チームのマフラーを買い、笑顔に戻った叔
父さんと別れた。

 スタジアムの鉄柵に沿って歩いていると、ピッチにいる選手が見れる場所を発見。指定
席のスタジアムへの入口は曇りガラスの扉なのだが、自由席は鉄格子になっていて、外か
ら中が見える。自由席の入口でも扉の開閉をする係がいて、スタジアム内でも再度チケッ
トチェックするらしい。スタジアムの中はまるで特権階級みたいなもんだと、私はその様
子を眺めていた。特権階級になれなかった私の側には、同じようにチケットを手に出来な
かった者達が真剣に場内を見詰める。鉄の扉の向こう側には、チームカラーの黄色と青を
あしらった服装を来た人が垣根をなし、その空いた隙間から選手の姿を拝めるのだ。私は
ハンティング帽を被った老紳士の横に自分の居場所を構えた。その紳士はイタリアの俳優
マルチェロ・マストロヤンニに似ていて、私は勝手にマルチェロ叔父さんと心の中で命名
した。マルチェロ叔父さんは身動ぎもせずに試合の成り行きを静かに見守っている。私は
「何対何?」っと聞いてみた。マルチェロ叔父さんはほとんど英語が解らないのだが、ニ
ュアンスで通じたらしい。「キエーボ、ドゥエ。ヴェローナ、ウノ」と教えてくれた。そ
うかキエーボが2対1でリードなんだと思っていると、マルチェロ叔父さんは「お前はど
っちを応援しているんだい」と私に質問してきた。私はさっきと同じ轍を踏まぬよう「あ
なたは?」と探りを入れた。わしはキエーボだと胸を張ってマルチェロ叔父さんが答えた
ので、ほっとしながら私もそうであることを伝えた。

 ハーフタイムになると、場内の人々が鉄柵付近にやってくる。移動販売のサンドイッチ
屋の辺りに人だかりが出来て、柵の中からオーダーをして店主自ら品物を届けていた。入
場ゲートにいる私達に向って、上からペットボトルが投下される。当たりはしないのだが、
特権階級の人々がいかにも「羨ましいだろ」とからかう。その内に後半のゲームが始まり
人々はそそくさと座席に戻り、チケットが入手出来ないものだけがその場に取り残された。
小さな隙間からキエーボの右アウトサイド・フォーリオの背番号18が見えた。どうやら
私のいる地点から右に向ってキエーボが攻めているようだ。キエーボリードで試合時間も
刻々過ぎていく。70分少しを経過したところで、割れんばかりの歓声が轟く。マルチェ
ロ叔父さんは顔を覗き込む私に、「2対2だ」と溜息交じりに言った。

 それからしばらくすると、突然ゲートの南京錠が外された。多分、早目にスタジアムを
後にする人への処置なのだが、スタジアム内に入ってもいいらしい。これぞサッカーの神
様の恵。マルチェロ叔父さんは、私を気遣いながら中に入るぞと手招きする。長い階段を
登っていると、またもただならぬ歓声が聞こえた。きっとゴールだ。 周囲の人の歩みが急
ピッチとなる。マルチェロ叔父さんも慌てて階段を駆け上っていたが、すぐにペースをゆ
っくりに変えた。私もどちらの得点か気掛かりも、独りで先に行くのもどうかと考え、マ
ルチェロ叔父さんの後に従うことにした。

 スタジアムに入ると、そこは熱狂的なヴェローナサポーターの集まるグゥルバであった。
電光掲示板はヴェローナに3の数字が入っている。マルチェロ叔父さんが歓声の後に慌て
なかったのは、サポーターの歌声からヴェローナの得点だと悟ったからだ。スタジアムは
黄色と青に染め上げられている。どちらも同じチームカラーだからヴェローナとキエーボ
のサポーターを区切る境界線が解らない。収用人数は43000で国立競技場よりも少し
小さい。だが三階構造のせいかより小さく見える。けれど雰囲気は昼に見たミラン対ピア
チェンツァなど、足もとにも及ばないくらいに熱い。アルゼンチンのボカをボンボネーラ
と言ってキャンディー箱の例えをするが、ボカと同じカラーである両チームのサポータが
ひしめくスタジアムは、まるで開けたてのキャンディー箱のようだった。記者席にもマス
コミ関係者が寿司詰めで、この試合の注目度が伺い知れる。

 グゥルバの前から2列目はガラガラである。そこに陣取った人達は、3階だというのに
前の手摺に鈴なりにまたがり、今にも落ちそうなほど激しく声援を送っている。女の子も
かん高い声ではなくとても野太い。Jリーグでもサポーターの応援が根付いてきたと思っ
ていたが、ここの連中に比べたらまだまだひよっこだ。私は駒場スタジアムにいつも足を
運んでいるが、あれだけの凄い応援でも、時折アウェイサポーターの応援歌は聞こえてく
る。なにしろここでは、真向かいでキエーボサポーターが手拍子しながら歌っているの様
子は解るも、圧倒的なヴェローナサポーターの歌声で完全に掻き消され、応援などないに
等しい。マルチェロ叔父さんと空いていた2列目に移動したのだが、あまりの大音響に私
は鳥肌が出て呆然としてしまい、後ろの人に見えないと注意されるまで立ち尽くしてしま
った。

 ピッチに目を落とすと、キエーボの見慣れた4−4−2のスリーラインがおかしい。人
数を確認すると一人少なく退場者を出したようだ。それでもキエーボは臆することなく、
スリートップ気味で攻撃を仕掛ける。新参者には負けじと、リードを守りる覚悟のヴェロ
ーナ。気迫のこもったプレーで応戦が続く。試合終盤はキエーボペース。ロングボールに
反応したキマイエレが重戦車の如くドリブル突破しベローナゴールを脅かしCKを得る。
そのCKがフォアに抜けてコッサートが鋭いシュートを放つが、ヴェローナのカンナバー
ロがシュートコースに身を呈してゴールを守った。更にキエーボはゴール前でのFK。コ
リーニの蹴ったボールは壁に当たって跳ね返り、それを拾ったペロッタがミドルシュート
を打つも左に外す。

 キエーボのチャンスの連続に、私は手に力が入るも身を堅くする。なぜならここはヴェ
ローナのグゥルバだ。そんな場所でキエーボを応援したら袋叩きにあいかねない。隣をふ
と見ると、キエーボの攻勢に気を良くしたマルチェロ叔父さんのジェスチャーが大きくな
る。もしキエーボがゴールを決め、感きわまり二人して喜んだら…

 しかしそれは起こらなかった。長いロスタイムを経て、スタジアムにはヴェローナサポ
ーターの凱歌が響いた。マルチェロ叔父さんはしょんぼりとして、そのままぼんやり佇ん
だ。私も力なくヴェローナサポーターの歌声に漂うしかなかった。しばらくして我に返っ
たマルチェロ叔父さんが、私に行こうと合図した。スタジアムを出ると、マルチェロ叔父
さんは私に手を差し出し握手を求めた。おそらく「残念だったね」と一声掛けてくれたの
であろう。マルチェロ叔父さんはハンティング帽を深く被り直すと、人々の波に飲み込ま
れていった。



*  この作品はISIZE SPORTS「スポーツコラムコンテスト」(2001年11月開催)
  佳作受賞作を、一部加筆・修正致しました。