9月「難しい授業」
わからない!わからない!!難しい授業
今月、CCNAという資格試験のための講習会を受ける機会を与えていただいた。CCNAとは「ネットワーク設定に関する基礎があり、適切な知識を有するものに与えられる資格」だそうだ。この仕事をしていく中で初めてこのCCNAの存在を知ったが、全くの素人である私にとってはかなり難しい内容で、全く無縁のものであろうと理解していた。しかし、わけあって急遽受講するチャンスをいただいた。
朝9時〜5時30分までびっしりと授業が持たれ、それが3日間も続いた。2〜3cmの厚さのテキストが3冊。とにかく超スピードで講義が進んでいった。この講習のあとに資格試験が控えているので皆さん本当に必死だ。(私は残念ながら代理受講なので試験までは受けられないが……。)夜8時、9時まで自習をして帰る方がほとんどだったようだ。そんな超難しい講義を受けながら、子ども達の「わかる」「わからない」を考えてみた。
・これって何の事だっけ??
講義の中で時々わからない部分があった。もちろん、全くちんぷんかんぷんという部分もあったが、「あれ??これって何だっけなあ??」と振り返りたくなる場面もたくさんあった。その時、ふと前のページに戻って確認してみた。「ああ、なるほど……。」と納得していると、講義はみるみるうちにどんどん先に進んでいた。え?何言ったの??と戸惑っていると、あれよあれよという間に、どんどん取り残されてしまった。これが「わからない」の始まりなのだろうと思った。
学校でも「分からない」という子どもはたくさんいる。1時間の授業の中で「これって何の事??」と振り返りたくなる場面がたくさんあるのではないだろうか。その「振りかえりたくなる部分」が次から次へと出てくる子どもにとっては、たとえゆっくりゆっくり進んでいる授業でも、「ちょっと待って!」と悲鳴をあげているのかもしれない。その「ちょっとまって」が山積されて、「全てわからないよ」という事に陥ってしまうのだろう。
授業にゆとりを作ってあげて、「あれ??これって何だっけなあ??」と振り返る場面を保証してあげなければならないと思う。また、振り返ってみればわかるんだと言うことを理解させ、振り返ることができる子どもを作ってあげたい。
・基本の言葉がわからない
今回のこの研修は、全くの専門分野である。使われている用語は全て専門用語。社員の方々はその専門用語についてのスキルを持っているので、容易に話を理解していく事が出来るのだろうが、私にとっては講師の言っている言葉がわからなかった。
その基本的な用語が学校でいう「基礎・基本」なのだろうか?。では学校でいう「基礎・基本」はどこまで必要なのだろう。小学校で習得するべき内容については全て「基礎・基本」でなければならない。しかし、子ども達は無限に近いこの「基礎・基本」を全て記憶させていく事は困難に近い。また逆に小学校で習得すべき「基礎・基本」だけでは不足でもある。「一を聞いて十を知る」という言葉があるが、いくつかの知識(「基礎・基本」)から、もっとたくさんの知識に広げていける能力があれば、自分で「基礎・基本」を増やしていくことができるし、小学校で習得すべき「基礎・基本」にとどまることなく、たくさんの知識を習得していくことができるようになるのだろう。
今、「基礎・基本」として「読み、書き、そろばん(計算力)」が取り上げられているが、それももちろん必要だと肯定した上で、それ以上の「基礎・基本」として「考える能力」「応用していく能力」を付け加えていきたいと思っている。
「生きて働く力」を身につけようと「能力」に着目した時代があった(今でも、本当は「能力」を身につけようとしているのだと思いますが)。しかし、これはあまりにも難しく、数字になりにくかったので、また目に見える「読み、書き、そろばん(計算力)」を中心に考えていく時代に逆戻りしてしまったように感じる。(いいえ、時代はいつも行きつ戻りつですから、またこの時代が来ただけなのです。)「読み、書き、そろばん(計算力)」も、脳の一部しか使わないような繰り返しの練習だけで習得されたものではなく、考えて読み、考えて書き、考えて計算していくような、脳の中全体を使っていく力を身につけていきたいと思うのである。
自分にはその力があるかどうかはわからないが、専門用語がわからないながらも、「これって、こんな意味なのかなあ」「このことって、これと同じような意味かなあ」と勝手に解釈をして何とか理解していこうとしていた(と思う)。
・子どもの頭の中のイメージを動かしていこう
今回の研修は3日間の集中研修。しかも2〜3cmほどもあるような分厚いテキストを3冊も用意され、次から次へと機関銃のようにネットワークの知識、用語、設定をたたきこまれていった。何とか必死についていく過程において、自分の頭の中はどのように働いているのか、時々分析してみた。すると、自分の頭の中では、色々な図形がごちゃごちゃ絡み合っていた。講師の話を元にしていくつものパソコンや機械、パソコン、スイッチが出てきて、コードを結んでいこうとしていた。講師の説明を具体物をイメージして、また、図式化して、理解しようとしていた。時々講師の先生がホワイトボードに描いてくださるイメージ図により、理解度が増していったという事も、自分がそのようなイメージ図を描こうとしていたということがわかった。全ての人間がこのようにイメージ化して理解していくかどうかはわからないが、多分この「イメージしながら物事を覚えていく」ことが物事を理解していくプロセスになるのではないかと考える。訳のわからない記号をお経のように淡々と覚えていくのはやはり難しいだろう。聞いた言葉を図式化してイメージ化していくことができれば、理解もしやすくなるのではないだろうか。算数の文章問題では具体物をイメージしながら頭の中でそのものを動かしていく。算数の図形問題では、頭の中でその図形を回したり折ったりしていく。それができるようになればより簡単に式を導き出すことができるようになるのではないだろうか。歴史の年号も「○○年 ○○事件」「△△年 △△戦争」と、それだけを覚えていくより、その時代時代の背景や、人間関係、人物の性格までもイメージしていく事が出来れば、よりスムーズに、そして応用的に覚えていけるようになるのではないだろうか。
子どもたちの「基礎・基本」には、このような能力を身につけていくことも入るのではないだろうか。
(ちなみに講師の先生は、まだ20代くらいかと思われる女性の方でした。ものすごく切れる方でした。この方はいったいどのようにしてこの知識を身につけていったのだろう。どのような小学校時代を過ごしてきたのだろう……。そんなことも考えてしまいました。)
学校に対する批判、教員に対する批判
NTT社員の方だけでなく、様々なお客様との出会いも貴重な出会いの一つである。お客様には、「本来の仕事は教員で、今年一年研修をしています。」と自己紹介をする。この研修についてはなかなか知られていないので、「学校の先生も大変ですねえ。」と言って下さる方もいらっしゃる。しかし、もちろん中には学校の教員に対して批判してくださる方もいらっしゃった。
「学校の先生は偉そうにしている。」とか、「親が学校に行った時、子ども達はとてもよく挨拶してくれるのに、先生は挨拶してくれない。」など、正直な意見をいってくださった。自分の子どもが人質としてとられている学校ではなかなか言うことができない事を、ここぞとばかり話してくださったのだろう。お世話になっている部長が「クレームも大事なお客様のご意見だ。それだけ自分の会社に関心があるわけだ。」とおっしゃったことを思い出す。大事な大事なお客様の、本当に正直な意見として受けとめていかなければいけないだろう。そして、これは教員批判のごく一部であると理解していかなければならないだろう。
教員も変わっていかなければ。学校も変わっていかなければ……。