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「江戸時代の女は強かった」
縁切寺に見る離婚事情−−−満徳寺資料館館長に聞く


満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並び称される、日本に二つしかない縁切寺だ。縁切寺とは、江戸時代に離婚を求めて駆け込んだ妻を救済し、夫と離縁させてくれた尼寺のこと。
 当時、江戸幕府から公認されていた縁切寺は、鎌倉の東慶寺と、群馬の満徳寺だけだった。その満徳寺の近くに自宅があった。そんなことがきっかけで縁切寺と三くだり半の研究を続けるとともに、廃寺となった満徳寺を「満徳寺遺跡公園」として復元させた高木侃・満徳寺資料館館長に話を聞いた。








■離縁状求めて行脚の旅。
集めた数は1000通


 満徳寺のある太田市徳川町は、徳川氏発祥の地であり、この満徳寺も徳川家康の先祖であるとされる徳川義季の開基である。また、家康の孫娘千姫が入寺して豊臣家と離縁後、再婚したことなどから、満徳寺と徳川家の縁は深く、江戸幕府の厚い保護を受けていた。
 「大学院生の時、家族法を専攻したのですが、そのときに恩師に『君の家の近くにある満徳寺を研究対象にしたらどうか』と言われたのがきっかけで、以来36年間、満徳寺一筋に研究を続けてきました。それと並行して、離縁状、つまり三くだり半の収集を始めたのです。当時の離縁状は、三行半で書かれていたので三くだり半と呼ばれていたのはご存じのとおり。
 満徳寺は、文化六年(1809)に全焼してしまい、資料はあまり残っていませんでした。それで昔の名主宅を中心に関東各県を訪ね歩いた。
 満徳寺の駆け込みに関するものは120通、三くだり半は1000通。これだけの数が集まると、おもしろいことがわかってきました」。


■江戸時代の離婚定説を覆した「高木説」の数々

江戸時代の夫婦関係というと、夫は妻を一方的に追い出すことができたとか、妻はただ忍従のみの生活を強いられていたなどのイメージが色濃くある。だが、1000通の三くだり半から透けて見える江戸時代の離婚は、われわれが考えるよりもずっと妻側に主導権があったのだという。
「当時の離縁状は、必ず夫が書いて妻に渡すことが法律で決められていました。しかし、必ずしも妻を追い出すために夫は三くだり半を突きつけたわけではありません。その証拠として『離縁状返り一札』というのがあります。これは、三くだり半を受け取った妻が、夫に渡す受け取り状。一方的に離縁をして妻を追い出せたのなら、こんな受け取りなんて必要ないはず」。
 また、三くだり半の決まり文句に「我等勝手に付き」という文言があるが、これも今までは「夫の勝手気ままで妻を離縁する」と解釈されていた。「しかし私は、『夫の都合で離縁するのであって、妻には落ち度がありません』と解釈するのが正しいと考えます。いろんな古文書を読んでいると、『我等勝手で縁組みしたい』『我等勝手で養子を迎えたい』などと使われています。『我等勝手に付き』は、当時の日常的な常套句だったのです」。
 さらに「高木説」は続く。「『先渡し離縁状』というものの存在もわかりました。これは行いの悪い夫に業を煮やした妻が、あらかじめ離縁状を夫に書かせ『次に約束を破ったら、この離縁状で別れますよ』と脅すための証文です。このことからも、妻側が離婚の主導権をにぎっていた場合もあったことがわかります。以上のようなことを通して、私は『江戸時代の離婚は夫の一方的なものではなかった』という説を打ち出しました。江戸時代の離婚は、今で言う『協議離婚』だったと思っています」。
 どうやら江戸時代の女性たちは、夫に追い出されて離縁され、泣く泣く実家に帰っていたというわけではなさそう。とくに、ここ群馬あたりの農村の女性たちは、糸挽き、機織りなどの担い手として経済力もあったため、妻が夫に離縁状を書かせるというケースもあったらしい。


■長年の夢「満徳寺の復元」が実現

 満徳寺と三くだり半の研究を一筋に続けてきた彼が、ずっと思い続けていたことがあった。満徳寺の復元だ。「檀家を持たず、徳川家の庇護にのみ依存していた満徳寺は、明治維新で徳川家が衰退すると廃寺となってしまったのです。明治5年のことでした。これをなんとか復元し、満徳寺を多くの人に知ってもらいたい。そんな思いが常にあり、周りの人に『満徳寺を復元したい』と言い続けていたのです」。
 尽力のかいあって、満徳寺は国のふるさとづくり特別事業に指定され、平成4年10月に資料館、平成6年6月に本堂が完成した。「資料館の開館にあたり、なにかここの目玉になるものを作りたいと思いました。当時、満徳寺は縮小移築され、地元の集会場として使われていたのですが、その床下に縁切りのために人形を投げ込んで行ったおばさんの話を思い出したのです。夫との関係に十数年間悩んでいたのに、その後2カ月で縁が切れて離婚できたという礼状をもらって。『これだ』って思いました。満徳寺が現代の縁切り・縁結びの願掛けの場になればいいなと思ったのです」。
 それまでの研究生活の中で、全国各地の縁切信仰の対象となるものを訪ね歩いていた。京都の清水寺には昭和30年頃まで縁切り・縁結び用の厠があった。また、大坂の持明院には「縁切り厠」があり、その中で離縁を願えば縁が切れると「浪華百事談」という書物に記されている。彼は縁切・縁結び厠を作ることを決心した。


■厠のみぞ知る、現代縁切り・縁結びの実態

 「縁切り用には白い便器、縁結び用に黒い便器。願い事を唱えながら白い便器に用を足して『縁切り』祈願をし、途中から黒い便器で『縁結び』祈願をしてもらおうと考えていたのです。でも、オープン直前に、女性職員から『そういうことは男性にはできても、女性には物理的に不可能だ』と言われてしまって、ああ、そうかと。それで急遽、水溶性のお札を作り、それを流すように変更しました。
 オープン1カ月前のことです。実はここだけの話ですが、今までに3人ほど間違えて本当に用を足してしまってるんですよ(笑)」。

 縁切り、縁結びの札は、縁切りの札を白い便器に、縁結びの札を黒い便器に流す。2つの色には「縁を切って白紙に戻し、物事の白黒をはっきりさせて人生を一歩前進させる」という意味合いがある。自分で満徳寺へ出向けない場合は、資料館からお札を送ってもらい、願い事を書いて送り返せば、毎月巳の日に縁切り、毎月卯の日に縁結びの札を館長自らが流してくれる。
 オープンから11年を過ぎ、彼の元には数々の礼状が届けられている。「末期ガンの母が痛みと縁を切って、少しも苦しまずに亡くなりました」と、娘さんから礼状が来たり、「浪人生活と縁を切って大学に合格できました」とお礼に来た親子もいる。「時節柄でしょうか、こんな話もありました。暮れも押し詰まったある夕方、中堅どころの会社の会長がやってきて『社員36人ほどをリストラしたい』と言うのです。お札には社員の名前が書いてありました。正直、困ってしまいましたね。でも、年明け早々に『30人に気持ちよく退職してもらえました』とお礼の電話をいただきました」。

 最近、ここを訪れる若者に「縁結びの願い事は書きたいけれど、縁切りの願い事は思いつかない」という人が見受けられる。なかには「結婚前の妊娠と縁を切る」と書く人もいるらしい。「どんな願い事でもいいんです。『独身』と縁を切り『結婚』と縁を結ぶとか、『病気』と縁を切り、『健康』と縁を結ぶなど、なんでも考えられますよね。自分ならではの願をかけてみるといいと思います。私自身は自分の願いは書かないことにしてるんですが、『不況・不景気』に縁切りなんてのはいいですよね(笑)」。








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