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 江戸時代、時宗の尼寺であった徳川満徳寺は、鎌倉の東慶寺と並んで縁切寺として著名であった。男女差別が厳しかった当時にあって、不法な夫(男性)から妻(女性)を救済するという縁切りの特権が認められた、いわゆるアジール(避難所)は世界に二つしか存在しなかった。

 このような縁切寺満徳寺の歴史的・文化的意義にかんがみ、かつての伽藍の完全復元を目指すとともに、縁切寺満徳寺資料館の建設を計画した。これは徳川氏発祥のまちづくりの一環として構想され、満徳寺の旧境内全域(約九反)が県史跡の追加指定を受け、その後国のふるさとづくり特別対策事業にも採択された。当館は平成2年10月に工事着工、鉄筋コンクリート造り、日本瓦葺、平屋建、延床面積約432平方メートルの建物が旧境内地の西側に平成3年8月に完成し、平成4年10月に開館した。

縁切寺をたんに女性の、過去の間題としてだけでなく、現在と未来をみすえていただきたく、「アジールからの出発」として、つぎのメセージを送りたい。

現在、法的に男女平等が保障されているとはいえ、実質的に男女差別がなくなったといえる状況ではない。かつて差別は男女問題に顕著にあらわれており、ここ縁切寺は夫の不法に泣く女性を救済して、離婚を達成させてくれたのであるから、差別撤廃の原点といえる。
タテマエとして男尊女卑が徹底していたなかで、実は女性はしたたかに生きてきたようだ。三くだり半の背景を調べていくと、女性のたくましさが見えてくる。
縁切寺は「駆け込み寺」とも呼ばれ、生命・身体の危険を避けるために駆け込むアジールであった。国際的な政治亡命や難民、身近ないじめ、家や家族の間題もその解決の淵源はアジールにある。
このアジールを現代女性の縁切り・縁結びの出発点にしてほしい。                                              



 写真/満徳寺復元完成図

■縁切寺満徳寺物語
満徳寺の開山浄念尼

 満徳寺のはじまりについての確実な記録はない。わずかに寺の言い伝えに過ぎない「由緒書(寺法申立書)」があるにすぎない(火災や廃寺のために、史料のほとんどが失われたためである)。
 それによれば、鎌倉時代、徳川義季(とくがわよしすえ)が開基となって満徳寺を建立し、最初の住職(開山)には、出家した義季の娘がなり、浄念尼(じょうねんに)と称した。二世は義季の孫の浄院尼(じょういんに)で、浄院尼の名は長楽寺文書にもみられ、その後も代々新田氏ゆかりの人たちが住職になり、三世念空比丘尼(ねんくうびくに)、四世慈円比丘尼(じえんびくに)と伝えられている。
 しかし、その後約200年間の寺史は空白である。おそらく新田氏の没落とともに満徳寺も衰退したに違いない。16世紀初めに時宗(一遍上人のひらいた遊行宗のこと)の尼寺(道場)であったことが、満徳寺についての最も古い確実な記録である。

右/写真の開山浄念尼像は、1691(元禄四)年に作られたが、この時期に満徳寺の由緒や寺格が整えられたようである。


■世界に二つの縁切寺
 
縁切寺とは、江戸時代に離婚を求めて駆け込んだ妻を救済して、夫との離婚を達成させてくれた尼寺のことで、「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」ともいう。縁切寺は寺院のもつアジール性の名残と考えられ、男子禁制の尼寺には、一般的に縁切寺的機能があったとおもわれる。
 しかし、江戸時代中期以降、幕府から公認された縁切寺は、ここ上州(群馬県)の満徳寺と相州(神奈川県)鎌倉の東慶寺の二つだけであった。
 そのことは1758(宝暦八)年に上州勢多郡東大室村(前橋市)彦八の女房「ふみ」(実家は佐位郡市場村−赤堀村−)が満徳寺へ駆け込んできた事件に関連する史料に残っている。それによれば、幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺に限ること、たとえ満徳寺の寺法を拒否しても、評定所一座(現在の最高裁判所大法廷にあたる)で、寺法通りに離婚が仰せ付けられるので、離縁状の提出を断ることはできないと、寺社奉行は命じている。
 ところで、スタンダールは『恋愛論』のなかで、縁切寺のような女のための楽園を夢みている。スタンダールがこれを著したのは1822(文政五)年のことで、満徳寺には安房国長狭郡天面村の「みゑ」が在寺していた。縁切寺は、世界的に特異な制度で、日本にしかなく、世界に二つのものなのである。


駆け込み門

本堂から見た駆け込み門 

■千姫の入寺
 
世界に二つの東慶寺と満徳寺が、江戸時代を通じて縁切寺として存在しえたのは、徳川家康の孫娘千姫(せんひめ)にかかわる由緒による。
 東慶寺は、千姫が助命をかなえた豊臣秀頼の娘天秀尼(てんしゅうに)(二十代住職)の入寺にあたって、家康から縁切寺の制度を特別に許可された。
 満徳寺は千姫自身が入寺し、離婚後再婚した例にならって、両寺とも古くからの縁切寺法の特権が再確認されたと伝えられている。
 ところで、千姫本人は入寺せず、身代わりに俊澄上人(しゅんちょうしょうにん)が住職として入寺したという。俊澄上人は満徳寺中興開山と称されたが、その出自にはいろいろな説がみられ、定かでない。
  満徳寺の住職は弟子譲り、つまり先の住職が後の住職を選任したのである。三代まで大奥から住職が選任されているので、俊澄上人も大奥にいた人物であろう。
 なお、千姫入寺の由緒は、真偽のほどは別として、満徳寺の寺格に盤石の重みを与え、縁切寺法の存続・擁護に強力な背景となった。


■徳川氏と満徳寺
 鎌倉時代に徳川郷を領地とした義季は、所領にちなんで徳川(得川)四郎と名乗った。徳川家康はこれを先祖とするという由緒が江戸時代の満徳寺の地位を決定した。家康は徳川郷を徳川氏の先祖新田氏の故地、つまり徳川氏発祥の地であるとして、1591(天正一九)年11月、450石の御朱印地(ごしゅいんち)として年貢課役(ねんぐかやく)を免除し、特別に庇護した(そのうち100石が満徳寺の御朱印地とされた)。徳川村といわず中世的な郷と称したのもそのあらわれであろう。
 徳川郷の百姓は脇差(わきざし)をさし、大名行列にも土下座(どげざ)しなかったといわれている。徳川郷を支配したのは正田隼人(しょうだはやと)家で、土地では「頭役」と呼ばれ、将軍の代替わりに際しては、満徳寺住職とならんで拝謁の栄によくすなど特別な地位にあった。1803(享和二)年の徳川郷明細帳によれば家数は72軒、人口は285人であった。
 満徳寺は、徳川氏発祥の地にあり、先祖が建立した寺であった。さらに千姫が満徳寺に入寺したことにより、さらにこの由緒が強調され、寺格を高めることとなった。
     

■満徳寺の寺格

 満徳寺は縁切寺としての機能のほかに、つぎのような寺格と性格を有していた。
 
尼寺御所--いわゆる御所寺の格式をもっていた
時宗一本寺--本山も末寺も持たない唯一独立した寺であった
朱印寺--幕府から高百石の御朱印地を与えられた
御位牌所--徳川家のために専ら念仏回向する寺であった
御修復所--寺院の建築とその修復は幕府によって行われた
 
 満徳寺は徳川家とのゆかりを前面に出して、縁切寺法の取り扱いにもその権威をうしろ盾にした。
 満徳寺は徳川家の位牌所だったので、歴代将軍の位脾をはじめ、ゆかりの人たちの位牌がある。家康は特別に御神殿に祀られ、尊崇された。しかも「東照大権現 神儀」の裏には「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」の戒名が刻まれている。


■満徳寺の終焉
 満徳寺は檀家(だんか)を持たず、徳川家の庇護にのみ依存していたので、明治維新をむかえ、江戸幕府が瓦解するとともに、1872(明治五)年に廃寺を余儀なくされた。
 もう一つの縁切寺である東慶寺が、最後の尼僧が逝去した後も男僧の寺として存続しているのと相違する。
 その後の満徳寺は、徳川区民がかつての堂宇を縮小・移築して集会所とし、本尊・位牌類を維持管理して今日に伝えたのである。


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