「新島襄記念会堂」は、新島襄召天30周年を記念して1919年(大正8年)に完成した。
大谷石造の建物はF・L・ ライト設計の帝国ホテル(大正12年竣工)の5年前であり
、この点からも設計者古橋柳太郎と安中教会礼拝堂の建築史上の意義が高く評価される。この礼拝堂のデザインは基本的には、外観をゴシック様式とし、石造の壁体に控壁(バワトレス) を入れて分節を行い、正面玄関左に鐘塔を配置している。内部は天井をロマネスク風に円筒ヴォールトとし、身廊と側廊の間には列柱を設けず、会堂を広く見せる工夫がされている。身廊と祭壇部との境にも大アーチをつくらず、祭壇までヴォールトを延長して一体化し、ヴォールト端部を2本の石柱(茨城産の大理石)で受けて祭壇に変化をつけるなど見事な手法がみられる。(東海大学建築学科の調査による)。なお現在の屋根は銅板葺に改められている。
(出典:安中市役所ホームページの「安中キリスト教会」説明文を引用)




安中教会は、1878年(明治11年)3月31日の夜、有田屋当主湯浅治郎の私設図書館「便覧舎」において、地元の求道者30名(男子16名、女子14名)が新島襄から洗礼を受け、続いて新島襄の司式で「公会設立式」を執り行ったのが始まりです。当初は便覧舎で、1883年(明治16年)には「碓氷会堂」を建設、ここで礼拝が守られていました。1919年(大正8年)新島襄召天30年を記念して、現在の安中教会教会堂(「新島襄記念会堂」)が建設されました。この時、湯浅治郎と柏木義円牧師は、東京・名古屋・京阪神間に広く募金を募っています。
安中教会は、新島襄が帰国後、日本で最初に福音の種を播いた群馬県で最初の教会であると同時に、日本人の手で創立された日本で最初の教会でもあります。
安中教会年譜
1878年
安中教会創立
1879年
初代牧師海老名弾正就任
1883年
碓氷会堂竣工
1886年
安中教会より信徒96名をもって原市教会が分離・独立。
1890年
新島襄永眠
1898年
5代目牧師柏木義円「上毛教界月報」創刊
1919年
新島襄記念会堂竣工
1926年
1932年
湯浅治郎永眠
1941年
日本基督教団設立
1947年
1978年
安中教会創立100周年記念礼拝




撮影 斎部功氏

1843年(天保14年)新島襄は、江戸神田一ツ橋安中藩板倉家の江戸上屋敷(現在の学士会館のある場所)で生まれました。幼名は七五三太(しめた)といいます。
1864年国禁を犯して函館より密出国した新島襄は、ハーディー氏所有の船で米国ボストンに到着した縁で、ボストンのハーディー家に引き取られ、
アルフュース・ハーディー(Alpheus Hardy)が理事を務めるフィリップス・アカデミー英語科、アーモスト大学アンドーバー神学校で学びました。アーモスト大学の1870年卒業生名簿に、ジョセフ・ハーディー・ニーシマ(Joseph Hardy Neesima)と新島襄の米国名が記録されています。また、大学内のジョンソン・チャペルの祭壇のすぐ右側には新島襄の肖像画が飾られています。尚、高崎藩士の家に生まれた内村鑑三も、新島襄の勧めに従い、1885年にアーモスト大学に進学しています。
1874年9月ボストンのマウント・ヴァノン教会で按手礼を受け、牧師の資格を得た新島襄
は、同年10月にバーモント州ラットラントのグレース教会で行われたアメリカン・ボード第65回年会で、日本でのキリスト教主義大学設立を訴え、当時のお金で5,000ドル の 寄付申し込みを受けることに成功しました。その年11月明治政府下の日本に10年振りに帰国した新島襄は、安中で両親に再会を果たすとともに、翌1875年京都に同志社英学校を開校、1878年には地元の求道者30名に洗礼を授け安中教会創立を助けました。
その後、日本におけるキリスト教の伝道に尽力しましたが、1890年(明治23年)急性腹膜炎のため、療養先の大磯「百足屋」にて47歳の生涯を閉じました。




1843年
安中藩板倉家の江戸上屋敷にて生まれる。幼名七五三太(しめた)。
1864年
函館より国禁を犯して密出国。
1865年
ボストン港入港。ハーディー家に引き取られる。フィリップス・アカデミー(Phillips Academy)英語科編入。
1866年
アンドーバー神学校付属教会で洗礼を受ける。
1867年
フィリップ・アカデミー卒業。アーモスト大学(Amherst College)入学。
1870年
アーモスト大学卒業(理学士)。アンドーバー神学校(Andover Theological Seminary)入学。
1874年
アンドーバー神学校卒業。按手礼(あんしゅれい)を受け牧師となる。アメリカン・ボード第65回年会で、日本におけるキリスト教主義大学設立を訴え、5,000ドルの寄付申し込みを受ける。宣教師として派遣され、11月に明治政府下の日本に帰国。
1875年
山本覚馬より京都に土地5,800坪を提供され、ここに同志社英学校創立。
1878年
求道者30名に洗礼を授け、安中教会創立を助ける。
1880年
「自責の杖」事件
1890年
療養先の大磯「百足屋」にて急性腹膜炎の為永眠。47歳。




新島襄記念会堂の壁に飾られている肖像画の人物について、よく説明を求められます。ここでは、安中教会のために尽くした肖像画の人物について説明致します。
肖像画 人物説明
新島襄(1843〜1890)
1843年(天保14年)江戸神田一ツ橋にあった安中藩板倉家の江戸上屋敷(現在の学士会館)にて生まれる。幼名は七五三太(しめた)。
1864年国禁を犯して函館より密出国。米国のアーモスト大学を卒業、アンドーバー神学校でキリスト教を学んだ後、1874年明治政府下の日本に帰国。1875年に同志社英学校を創立するなど、日本におけるキリスト教の伝道に尽力した。1878年には30人の地元求道者に洗礼を授け、安中教会創立を助けている。
海老名喜三郎(弾正)(1856〜1937)
福岡県柳川市に生まれ、同志社英学校で新島襄の教えを受ける。同志社卒業とともに安中教会の初代牧師に就任、7年間伝道に務める。前橋教会を初め各地に教会を設立した後、同志社大学総長となる。
徳富蘇峰とともに、所謂「熊本バンド」を代表する人物。
柏木義円(1860〜1938)
新潟県与坂町に生まれる。東京師範学校卒業後、群馬県松井田町にて小学校教員を務める。その後、新島襄を慕って同志社で学び、その教えを受ける。日露戦争当時より戦争反対を主張。安中教会5代目牧師として38年間務める。その間、「上毛教界月報」を発行し、教会を紹介するとともに、反戦・非戦を終生訴え続けた。湯浅治郎と共に新島襄記念会堂建設に尽力。墓のある安中市西広寺(さいこうじ)に眠る。
ジェローム・D・デービス(1838〜1910)
南北戦争に従軍し、その戦功により陸軍大佐となる。米国海外伝道協会(アメリカン・ボード)の宣教師。新島襄の同志社設立の計画に賛同し、山本覚馬とともに新島襄を助けた。その後、終生同志社運営に尽力。「新島襄の生涯」を著す。
湯浅治郎(雲外)(1850〜1932)
有田屋に生まれる。日本初の私設図書館「便覧舎(べんらんしゃ)」を創設。3,000冊の図書を収集、無料で一般に公開。1878年新島襄より洗礼を受けた30名の一人。後に群馬県議会議長・国会議員を歴任、廃娼運動の中心となる。新島襄の死後、同志社の維持・運営・発展に力を注ぎ、また安中小学校・新島襄記念会堂建設に尽力した。詩人湯浅半月(吉郎)は弟、洋画家湯浅一郎は長男、同志社大学総長・国際基督教大学初代総長を勤めた
湯浅八郎は五男である。また、治郎の後添い初子は、徳富蘇峰徳富蘆花兄弟の姉。


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